平安時代、袈裟御前(けさごぜん)の菩提を弔うために、文覚上人(もんがくしょうにん 保延5年~建仁3年・1139~1203)が開基したとされる浄禅寺(鳥羽地蔵・恋塚浄禅寺、京都府京都市南区上鳥羽岩ノ本町)
浄禅寺は、京の六地蔵めぐりの一つ「鳥羽地蔵」としても知られており、観音堂には、十一面観世音菩薩(京都市指定文化財)が祀られています。(六地蔵めぐり発祥の地である大善寺はこちら 大善寺)
恋塚浄禅寺の境内には、千本通からよく見える樹高13.5mあるの楠(クスノキ・京都市指定保存樹)があります。
恋塚浄禅寺の山門横には、正保4年(1647)山城国長岡藩主 永井直清が、儒学者である林羅山に撰させた「恋塚碑(写真左)」が立っており、恋塚と寺の由緒が記されています。
「鳥羽の里に恋塚の古蹟がある。・・・文覚の発意であることを知り、また節女の孝行を聞き、石碑が必要だと思った。表に伝え聞いたことを記し、永久に恋塚の名が伝われと望む」(京の石碑物語・京都新聞社より抜粋)
<恋塚の伝説>
「源平盛衰記」では、北面の武士遠藤盛遠が、渡辺左衛門尉源渡の妻である袈裟御前に恋をし、悩んだ袈裟御前が母と夫を救うため身代わりの犠牲となります。手をくだした遠藤盛遠は出家して文覚と名乗り、日本全国を荒行して廻り、高雄神護寺等を再興します。
※ なお、同じ千本通沿い(2.2Km南、伏見区下鳥羽城ノ越町)にも、 恋塚寺があります。