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京都市伏見区の歴史略年表

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京都市伏見区の歴史略年表

京都伏見は中世以降、伏見宮家の所領地としての文化を育み、近世においては、豊臣秀吉による雄大豪華な城郭と城下町として存在しました。また、江戸時代になると港湾交易都市、宿場町として繁栄し、京都伏見独自の文化伝統が形成されました。

   
時代 年号 西暦 事項
 



約1万6,500年前から約3,000年前

※土器の出現や竪穴住居の普及、狩猟採集経済などが特徴
稲荷山・大岩山の丘陵地で狩猟生活が始まり、縄文後期には上鳥羽鴨田一帯に集落ができる。

※地図の赤色が、現在の京都市南区上鳥羽鴨田の範囲です。



紀元前3世紀から紀元3世紀ごろまでの約600年間。

※日本で水稲耕作が開始される、弥生土器の使用
弥生中期ごろ深草西浦一帯に農耕村落が生まれる。
深草遺跡(深草遺跡に関する数度にわたる学術調査によって、大量の土器・石器・木器・自然遺物などが出土する。)



- 4世紀 稲荷山古墳(一ノ峰・二ノ峰・三ノ峰の古墳)
- 5世紀 俯見から朝廷に会贄土師部を貢進。
古墳・・・黄金塚1・2号墳、番神山古墳など
- 6世紀 深草里に屯倉が設定される。このころ秦氏が伏見を拠点としていた。
※ 伏見区深草は、「日本書紀」欽明天皇即位前紀に「山背国記群(やましろのくにきのこほり)深草里」と言われている場所(現在・伏見区稲荷町〜大亀谷町)である。



和銅4年 711 秦伊呂具が稲荷神社をつくる。(稲荷山の三ヵ峰に三柱を創祀)
天平勝宝2年 750 金礼宮が創建される。



延暦13年 794 城南宮が創建される。
大同元年 806 桓武天皇陵を宇多野から伏見に移す。
貞観4年 862 御香宮が九州筑紫の香椎宮から勧請(かんじょう)される。
貞観16年 874 聖宝、上醍醐に一寺を建立。
天暦6年 952 醍醐寺五重塔(現存)落慶。
寛弘2年 1005 木幡三昧堂(浄妙寺)落慶。 
延久年間 1069 橘俊綱、伏見山荘(指月森附近)を営む。和歌などに「伏見」の語があらわれる。
寛治元年 1087 白河上皇、鳥羽離宮に移る。
嘉保元年 1094 橘俊綱没、伏見山荘とその所領は弟、家綱が伝領。のちに家綱はこれを白河院に献上する。



文治2年 1186 後白河院、新造なった伏見殿御所(伏見殿)に移る。 
承久3年 1221 北条泰時、宇治川から伏見を攻める。
天福元年  1233 道元、深草(極楽寺跡、現宝塔寺付近)に興聖宝林禅寺を創建。(現在の宇治市宇治山田にある興聖寺)
建長3年 1251 伏見荘は後嵯峨院の所領となり、以降、伏見荘は持明院統に属することとなる。




貞治2年 1363 光厳院、伏見荘を大光明寺領として、崇光院の別相伝とする。のち崇光院はこれを栄仁親王にゆずり、その代々の相伝となり、伏見宮家が誕生する。



応永22年 1415 伏見庄の支配権をめぐり、土豪の三木・小川両氏にしばしば確執があった。
応永23年 1416 伏見宮貞成親王の「看聞御記」執筆開始、文安5年(1448)まで続く。
応仁元年 1467 応仁の乱
主要な戦場となった京都は、全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。(伏見の神社の大半も同様に荒廃する)
文明9年 1477
天文3年 1534 足利義晴、伏見山に城郭をつくる。





文禄元年 1592 豊臣秀吉、伏見指月に新屋敷の造営を開始する。
文禄3年 1594 伏見城の築城開始。延べ25万人が動員される。
豊臣秀吉、伏見城に入る。伏見城下町造成のため、予定地域の村落・社寺をすべて移転させる。
慶長元年 1596 鳥羽・伏見を震源地の大地震が起こり、伏見城全壊。
木幡山に伏見城再建工事が開始される。
慶長3年 1598 豊臣秀吉、伏見城で死去。伏見城は5奉行交代で護持する。
慶長4年 1599 徳川家康、向島城から伏見城の本丸に入る。
慶長5年 1600 石田三成側の西軍、伏見城を攻め落とす。9月、関ケ原の戦いで家康側の東軍が勝利する。
慶長6年 1601 伏見城復旧工事開始。家康、大阪城より伏見城に移る。
伏見に初めて銀座を設置し、丁銀、小粒銀を製造。



代 
慶長8年 1603 徳川家康、伏見城において征夷大将軍の宣下を受ける。
幕府、河村・木村の両氏に淀川の過書船(かしょぶね・大坂と伏見の間の貨客を運んだ船)の管轄をまかせる。
慶長9年 1604 幕府、南浜に伝馬所(京橋付近)を新設。伏見橦木町に傾城町(けいせいまち)復興を許可。
慶長10年 1605 御香宮本殿現在地に再興。
慶長12年 1607 松平定勝、伏見城代となる。
慶長18年 1613 幕府、角倉了以に京都二条〜伏見間の高瀬川の開削を行わせる。
元和元年 1615 鵤幸右衛門、伏見で土偶人形を作る。(伏見人形の起源か)
元和9年 1623 徳川家光、伏見城で将軍宣下を受ける。
小堀政一(遠州)、伏見奉行となる。
寛永元年 1624 二条城が整備され、伏見城の撤去がほぼ完了。
元禄11年 1698 伏見奉行建部内匠頭、伏見の復興策の一つとして伏見船200艘の新造を許可する。
元禄12年 1699 建部内匠頭により中書島が開かれる。伏見大洪水がおきる。
元文元年 1736 指物町の銭座で銭貨がつくられる。
天明3年 1783 大地震があり、被害は甚大であった。
天明5年 1786 伏見町民文殊九助ら、伏見奉行小堀政方の暴政を幕府に訴える(伏見騒動・伏見義民碑)。のちに九助らは許され、小堀政方は免職謹慎となる。
文久2年 1862 寺田屋事件が起こる。
元治元年 1864 長州藩士福島越後、兵300人を率いて伏見に入る。(元冶甲子の変)。禁門の変起こる。
慶応3年 1867 伏見奉行が廃止され、伏見は京都町奉行の支配下に入る。



明治元年 1868 鳥羽伏見の戦い起こる。(戊辰戦争の開始)
明治12年 1879 伏見区役所設置
「伏水」「伏見」の町名が「伏見」に統一される。
明治14年 1881 伏見区は廃止され、紀伊郡に合併される。
明治22年 1889 市町村制の実施にともない伏見町が成立する。
明治27年 1894 琵琶湖疏水、伏見まで貫流し、伏見インクラインができる。
明治28年 1895 京都電鉄の京都〜伏見間が開通する。
奈良鉄道(現近鉄)京都〜伏見間が開通する。
明治43年 1910 京阪電鉄の五条〜天満橋間が開通する。



大正2年 1913 京阪電鉄の中書島〜宇治間が開通する。
大正9年 1920 宇治川大氾濫のため伏見全町浸水する。
大正10年 1921 官営鉄道の稲荷〜桃山間が開通し、奈良線が全通する。



昭和3年 1928 奈良電鉄の京都〜桃山御陵間が開通する。
昭和4年 1929 伏見町が伏見市に昇格する。
昭和6年 1931 伏見市、紀伊郡竹田村、深草町、堀内町、下鳥羽村、横大路村、納所村、向島村、宇治郡醍醐村の9市町村が伏見区となり、京都市と合併する。
※『伏見学ことはじめ』思文閣出版の歴史略年表を引用(一部抜粋・時代等を加筆修正)致しました。


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