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京都観光情報や歴史探訪などをメインとした京都観光ブログ。観光気分で、ぶらり京都を散策。
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城南宮 七草粥の日


城南宮七草粥城南離宮斎館

城南宮 七草粥の日(京都府京都市伏見区中島鳥羽離宮町)
城南宮では、旧暦の正月7日に近い2月11日に神事が行われ、春の七草である、芹(せり)、薺(なずな)、菘(鈴菜・すずな)、蘿蔔(清白・すずしろ)などを神前に供えます。(写真右は、七草粥の会場である城南離宮斎館)

七草粥七草粥
七草粥は、芹、薺、菘、蘿蔔の他、繁縷(はこべ)、御形(ごぎょう)、仏の座(ほとけのざ)などの「七草」を細くし、人日の節句(1月7日)の朝、炊きたての粥に叩いた七草を入れる節句料理のことですが、春先に若菜の七草粥を食し、無病息災を願う風習は「源氏物語」の若菜の巻にも見られます。
参拝者は、城南離宮斎館にて七草粥(1膳500円)が振る舞われ、1年間の無病息災、延命長寿を祈願します。
「唐土の鳥が 日本の土地に 渡らぬ先に 七草なずな テッテッテロロロ・・・」
城南宮の七草粥は、塩味が程よく、中にはお餅が入ってました (^_^)v

(2013/2/11投稿)

万葉遺跡 石田の杜


石田の杜天穂日命神社

万葉遺跡 石田の杜(いわたのもり・京都府京都市伏見区石田森西町)
地下鉄石田駅を降りて、南西直ぐの場所に石田の杜があります。この辺りは万葉の昔、石田の森といわれる交通の難所であったため、石田の神に旅の安全を祈った場所です。
「万歳(よろずよ)に あり通はむと山科の 石田の杜のすめ神に 幣帛(ぬさ)取り向けて われは越え行く相坂山を」万葉集・巻13-3236
現在この地は、石田(いしだ)ですが、かつては”いわた”と呼ばれていました。石田の杜には、天穂日命神社(あめのほひみことじんじゃ)があります。
「当社は延喜式神名帳に載る天穂日命神社に比定されており、天穂日命を祭る。現在の本殿は天明3年(1783・江戸中期)の造営で、造営当時は天照大神と日吉山王を祭り、田中神社と呼ばれていた。・・・」(立て札より)

石田の杜石田の杜
写真左が天穂日命神社の本殿です。また神社入り口の石碑には、石田の杜に関する歌が刻まれています。
「山科の 石田の小野の ははそ原 見つつか君が 山道越ゆらむ」石碑右・藤原宇合・万葉集巻9-1730
「ひぐらしの 涙やよそに 余るらん 秋と石田の 森の下風」石碑左・順徳院の歌碑

鳥羽伏見戦跡・小枝橋


鳥羽伏見戦跡小枝橋

<幕末維新編・戊辰戦争開戦 Ⅰ>
江戸幕府最後の戦いの開戦地となった小枝橋(京都府京都市伏見区中島秋ノ山町)
明治元年(慶応4年)、薩摩兵を主力とする新政府軍が、鴨川東岸の鳥羽街道を北上してきた幕府軍先鋒隊を小枝橋付近で待ち構えていました。1時間ほどの激戦の末、幕府軍は陣地を失い下鳥羽まで撤退しました。翌日、再び幕府軍は、北上しましたが圧倒的な兵力の差に昼頃に撃退されてしまいます・・・
戦いの開戦地となった小枝橋は、近年上流に架け替えられており、旧小枝橋のたもとに道標や鳥羽伏見戦跡の碑がたっています。
以下、鳥羽伏見の戦い 勃発の地の立て札の内容です。
「明治元年(1868)正月3日夕刻、この付近で起きた戦いが『鳥羽伏見の戦い』の発端となった。『王政復古の大号令』の後、徳川将軍家の領地返納を強行採決した薩摩、長州らの藩に、不満を覚えた幕臣・会津、桑名らの藩は、正月1日、挙兵、大坂から攻め入ろうとし、薩摩、長州の新政府軍がこれを迎えうった。・・・この一戦を皮切りに約2年に渡る戊辰戦争が始まったのである。」

※ 戊辰戦争(ぼしんせんそう・慶応4年/明治元年~明治2年)とは、薩摩藩・長州藩を中核とした新政府軍と、旧幕府勢力、及び陸奥国、出羽国、越後国の諸藩が戦った内戦。新政府軍が勝利し、明治新政府が国際的に認められることとなった。
以下、千両松古戦場に続く・・・

千両松古戦場


千両松古戦場淀提

<幕末維新編・戊辰戦争開戦 Ⅱ>
千両松古戦場(京都府京都市伏見区納所下野)
明治元年(慶応4年)1月5日、小枝橋での戦いで敗退し、伏見方面から退却してきた幕府軍は、千両松に布陣し、追撃してくる新政府軍を迎え撃ちます。(淀千両松の戦い)
土方歳三率いる新選組、佐川官兵衛率いる会津藩の部隊と、新政府軍とが千両松で激突し、激戦の末、総崩れになった幕府軍は、鳥羽方面からの退却軍とともに淀城に向いました。
千両松古戦場と呼ばれる場所は、府道三栖向納所線沿いの京都競馬場の高架橋下付近にあり、「史蹟戊辰役東軍西軍激戦址」が立っています。
右の写真は、府道沿いの千両松町にある現在の淀提です。この先に・・・かなり距離ですが・・・千両松古戦場があります。
以下、淀小橋旧趾 に続く・・・

淀小橋旧趾


淀小橋旧趾淀小橋旧趾

<幕末維新編・戊辰戦争開戦 Ⅲ>
淀小橋旧趾(京都府京都市伏見区納所町)
明治元年(慶応4年)1月5日、淀千両松の戦いに敗れ、淀城への入城を拒まれた幕府軍は、当時、淀城の城下町の北を流れていた宇治川に架かる淀小橋を焼き払い、男山、橋本方面(京都府八幡市)に退却しますが、新政府軍の追撃を受け、敗退しました。
淀小橋のあった場所は、現在市街地として開発され、淀小橋旧趾の石碑は、住宅団地内の道路脇にひっそりと佇んでいます。