京都観光/旅行・ぶらり伏見

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京都観光情報や歴史探訪などをメインとした京都観光ブログ。観光気分で、ぶらり京都を散策。
ぶらりblogでは、主に京都伏見周辺を中心にぶらり散策しながら、京都の町並みや人気の観光スポット、京都の観光名所、ひっそりと佇む歴史の足跡などをブログ形式で紹介いたします。


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ぶらりblog 京都観光/旅行 記事一覧

五大力さん・醍醐寺


五大力尊仁王会

「五大力さん」で親しまれている五大力尊仁王会(ごだいりきそんにおうえ)のポスターが張られています。
仁王会法要は、毎年2月23日午前9時から下醍醐の金堂前(醍醐寺)で行なわれます。この法要は、昔、宮中において仁王経を講じて鎮護国家を祈願したことから始まったもので、醍醐天皇の頃より醍醐寺で開かれるようになりました。五大力尊仁王会は、昭和50年まで上醍醐五大堂で行なわれていましたが、醍醐寺開山1,100年を契機として、下醍醐の金堂前で行なわれるようになりました。
当日、金堂前では、五大力餅の奉納力競べがあり、力自慢がこれに挑戦します・・・ヾ(^0^)ゞ ガンバッテ下さい!
(2013/2/9投稿)

五大力尊仁王会五大力尊仁王会
「五大力さん」に行ってきました。天候も良く、かなり賑わっていました。
投稿記事はこちら 五大力尊仁王会・餅上げ力奉納
(2013/2/23投稿)

栄春寺


栄春寺榮春寺

栄春寺(泰澄山榮春寺・京都府京都市伏見区桃山町丹下)
栄春寺は元録11年(1568)傳養和尚により開創された禅寺です。慶長2年(1597)慶長地震後、徳川家康の家臣であった酒井作右衛門重勝が栄春寺の堂宇造営に尽力し開基と崇めら、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで功を重ねて出世し、伏見城守備の特命を受けています。

栄春寺伏見城の土塁
栄春寺の総門(写真左)は、伏見城の遺構であり、本堂裏手の墓地にある二段の石垣(写真右)に伏見城の土塁の一部が残されています。

太閤ゆかりの楼門


伏見稲荷大社・桜門伏見稲荷大社・桜門

伏見稲荷大社・太閤ゆかりの楼門
伏見稲荷大社の楼門(桜門、ろうもん・写真右)は、華麗な朱色の桃山様式の重厚な二層の大門です。
太閤ゆかりと言われるこの桜門は、豊臣秀吉が、大政所(おおまんどころ・秀吉の生母)の大病平癒を伏見稲荷大社に命じ、成就の時は一万石を寄進すると約束した事がきっかけとなって天正17年(1589)に建立されたものです。
秀吉の願文
「なおなお命の儀は三ヵ年、しからずは二年、実にならずは30日にてもたのみ思召され候。今度大政所殿お本服を願い一万石を加え奉り申付くべきの条、いよいよ応にぬきんずべく祈事専一に候也。六月廿日」
後に、一万石は五千石に値切られることとなります・・・

源空寺


源空寺源空寺

源空寺(京都府京都市伏見区瀬戸物町)
源空寺は、慶長17年(1612)徳川家康より現在地に900坪の土地を賜り、蓮乗房忍空の草庵を移転してできた浄土宗の寺院であり、法然上人二十五霊跡の一つです。
左の写真は、 伏見桃山城が廃城となった時、城内の建物の一部を移築した源空寺の山門です・・・がよくよく見ると上が本瓦葺、下が平瓦葺と一風変わった造りとなっています・・・ (._.)?
源空寺の朝日大黒天像(出世大黒天)は、伏見城の巽櫓(たつみやぐら)にあった豊臣秀吉の持念仏です。この大黒天は、豊臣秀吉に天下統一の大福を授けたと言われ、出世開運・商売繁盛のご利益があります。この地は、「福受け大黒」とも言われる出世大黒天があることより、もともと新大黒町の町名で呼ばれていました。

※ 昭和4年伏見市となった時、紀伊郡伏見町字新大黒町から現在の「瀬戸物町」に変更されています。

遠州ゆかりの石庭・御香宮神社


遠州ゆかりの石庭遠州ゆかりの石庭

遠州ゆかりの石庭は、御香宮神社(京都府京都市伏見区御香宮門前町)の社務所の奥にあります。
元和9年(1623)小堀遠州が、伏見奉行所内に作ったとされる石庭が、ここに移築され、城南宮楽水苑なども手がけた昭和の造園家・中根金作(1917~95)によって再現されています。この石庭の北側に弁天池がありますが、これも中根金作が桃山時代の石材を使って作庭したものです。
※ 石庭(せきてい)とは、庭木をほとんど使わず、岩石・小石・砂などの石材を中心につくられた庭のことです。

遠州ゆかりの石庭淀川三十石船 船歌
右の写真は、文明9年(1477)の銘のある手水鉢です。
以下、社務所に張られている「遠州ゆかりの石庭」の説明書きです。
「小堀遠州が元和9年、伏見奉行に就任した時、奉行所内に数奇を凝らした立派な庭園を造り、徳川三代将軍家光からその褒美として禄高5千石加増されて一躍大名になった。
明治になって工兵隊が出来た時、それが取り毀たれ僅かに残っていた池庭の傍に、将校集会所を建てた。それが終戦後、東部分が国道24線にかかり、西側全部が京都市に払い下げられて桃陵団地になったので、その機会に庭石の払い下げを受けて、ここに造園したものである。・・・」